新羅の歴史を物語る場所

               ~~~ その2 ~~~


雁鴨池と臨海殿跡



雁鴨池と臨海殿は、半月城のすぐ東にあった離宮です。
「あった」というのは、935年に新羅が滅亡した時、
この宮殿の建物は破壊され、美術品などもすべて池に投げ込まれ、
廃墟になっていたのでした。
1975年から、池とその周辺の発掘調査が行われ、
池の底から多くの仏像や当時の生活用品など3万余点もの遺物が出土しました。
(これらのうちの代表的な文物、約700点が
「国立慶州博物館」の「雁鴨池館」に収蔵されています)
発掘調査を通して、雁鴨池の全体の様子、各種の建物の位置や大きさ、
建物の様子などが分かってきて、それに基づいて池や建物の
復元・再現が進められ、史跡公園として公開されています。




臨海殿は、新羅第30代文武王が百済・高句麗を滅ぼして三国統一を達成した後の
674年に造られ、元々は皇太子の居城(東宮殿)でしたが、
王族や君臣達の宴会の場、会議や外国からの使節などの接待の場
としても利用されました。
当時は1000人もの人を収容できる規模だったそうですが、
今復元されている建物は規模も縮小され、また3棟しか出来上がっていず、
広い敷地内には柱の跡などが示されていました。




7世紀、新羅が百済や高句麗を滅ぼして領土を拡大し、財力も豊かになった時代に
多くの財貨を費やして造営された贅を尽くした宮殿であったようです。
しかし、9世紀から10世紀にかけて次第に国力が弱まり、
931年には、新羅最後の王・敬順王が高麗の太祖王建をこの臨海殿に迎えて
宴会を開き、その席上、高麗に帰属する旨を伝えたといわれています。
まさに新羅の栄枯盛衰を物語る場所なのですね。





          ↑ 雁鴨池

               東西200m、南北189m
                    の鍵型の人工池。
             当時、池畔には5棟の
                建物があり、これらは
                  雁鴨池を海に見立て、
                 臨海殿と呼ばれました。

                池は、建物のあるほうは
                   石で直線に作られ、
                反対側は自然な感じの
                曲線で入り江が作られて
                       います。
               池には3個の島が作られ、
                 神仙思想を取り入れた
               庭園作りだということ
です。






元々、この池は「月池」と呼ばれていたそうですが、
新羅滅亡の後は廃墟と化し荒廃の一途をたどりました。
荒れ果てた池では雁や鴨などの水鳥たちが戯れていたといいます。
それを見て朝鮮時代の詩人がこの池を「雁鴨池」と名付けたのだそうです。
「兵
(つわもの)どもが夢の跡」といった風情だったことでしょうね。




芬皇寺



634年、新羅第27代善徳女王によって創建されたと伝えられる寺です。
李氏朝鮮時代の仏教弾圧や文禄・慶長の役などで建物は焼失し、
今も残るのは、三層の石塔と寺院の礎石、井戸だけです。




三層の石塔(国宝に指定されている)

寺の創建当初のもので、元々は七層か九層だったと推測されるそうですが、
現在は三層しか残っていません。
この塔の作り方を「模磚(もせん)石塔」と呼ぶそうです。
「磚(せん)」というのは煉瓦のこと。
磚(レンガ)を使っているように見えるけれど、
実際は長さ30~40cm、厚さ4.5~9cmほどの安山岩の切石を焼き固めて
それを積み上げ、まるでレンガ造りの塔のように見せているのです。
中国に多かった磚塔(レンガ造りの塔)を真似ているという意味で
「模磚(もせん)石塔」と呼ばれるのです。
日本には木塔が多いのですが、韓半島でも百済や高句麗では
木塔が造られていたようです。
それが新羅時代から石塔が多くなるのですが、
その理由は韓国には石が豊富にあるからだそうです。

                


               この石塔が七層か九層

               あったのではないかと
               推測される根拠の
                一つが、境内の隅の
                塀の所に、
              石塔に使われたと
             思われる
                たくさんの石が
              積み重ねて
                 残されているからです。











石塔の一層目の四方には、それぞれに扉があり、
その扉の脇にはそれぞれ異なった二体ずつの仁王像が彫刻されて、
石塔を守っています。




仁王像のほかにも石塔を守るものとして、
石塔の基壇の四隅に
2匹の狛犬と2匹の海獣(オットセイのようなもの)が
置かれています。
狛犬は陸からの敵を、海獣は海からの敵を防ぐとされているようです。
(写真は狛犬です。海獣はうまく撮れていませんでした (;´○`;) 残念、、)





小さなお堂があり、「普光殿」という扁額が掛けられていました。
狭い堂内には金箔の
薬師如来立像が置かれていましたが、
これは李氏朝鮮時代の18世紀後半に作られたものだそうです。

お堂の前のほうに、外周は八角形で内は円形の
「三龍変魚井」と呼ばれる井戸がありますが、
これは創建当時そのままのものです。
言い伝えによると、
この井戸には国を守る3頭の龍が住んでいたけれど、
ある時、唐の使臣がこれらの龍を3匹の魚に変えて
持ち去ってしまいました。
龍の妻達が元聖王に訴えたので、王は使いを唐に送り、
龍を奪い返して井戸に戻したということで、
これが井戸の呼び名の由来なのだそうです。





入り口近くの鐘閣にある鐘も、やはり韓国式の地面に近く
設置してあるものでした。








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三日目の日も暮れてゆこうとしています。
この日も晴天に恵まれ、西の空には夕焼けが、
東の空には十四夜の月が昇っていました。
そして、満開の桜が少し散り始めています。
                                                         
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