今やブルージュも大観光地で、ことに夏などの観光シーズンには
大変な賑わいになるそうだ。
ただ、私達が訪れた3月下旬はまだ観光客もさほど多くはなく、
早朝などは本当にひっそりと静まりかえっていた。
ブルージュが中世の交易都市、金融センターとして隆盛を誇った頃の内港だった所。
当時は毎日150隻の船が出入りしたという。
その波止場だった所を水門で仕切り湖とした。
この辺りは今「愛の湖公園」となって人々の憩いの場になっている。
しかし、私達が訪れた早朝の時間、街も人もまだそれほど動き出してはいず、
音の無い、ひっそりと静かな雰囲気だった。
愛の湖のすぐ近くにあるベギン会修道院の入り口
修道院への入り口に架かる橋の所から撮った修道院の教会
この画面の左手奥の方が愛の湖
この辺りでは、運河にも湖にも白鳥がたくさん居た。
白鳥に関してはこんな伝説がある。
〜〜〜あのブルゴーニュ公国最後の公女マリーが落馬がもとで亡くなった後、
夫のマクシミリアンはブルゴーニュ公国領を継承したが、豊かなブルージュを
強引に自分の神聖ローマ帝国領に組み入れようとした。
反発したブルージュ市民がマクシミリアンを幽閉し、マクシミリアンの代官を
彼の目の前で処刑した。やがて釈放されたマクシミリアンは軍隊を率いて
町を支配下に置き、ブルージュ市民に永遠にその悪行を忘れさせない為にと
その代官の紋章であった白鳥を運河に放たせた〜〜〜
以上は伝説とも真実とも分からぬお話しだが、この後ーーー
マクシミリアンはブルージュが享有していた数々の町の特権を剥奪した。
土砂が堆積した事によって水上交通が絶たれ交易の中心がアントワープに移ったことが
ブルージュが廃れた大きな原因だが、マクシミリアンのこの処置も
ブルージュ衰退の重大な要因になった。
町は忘れ去られ長い眠りについた。
死んだような町の中で、白鳥はよく世話をされ、連綿と今に至っている。
↑修道院の教会と中庭
ベギン会について
ベギン会は12〜13世紀にフランドル地方から始まり、主に北西ヨーロッパだけに見られる
極めて独特な婦人達の集団システムである。
十字軍遠征によって寡婦になったり取り残されたりした女性達のために設立された。
修道女達は敬虔で瞑想的な修道院生活を営んでいたけれど、いわゆる修道院や尼僧院
とは随分異なった面もあった。元来が女性達の生活保障のために作られたものであった
ため、個人財産もお金を稼ぐことも許されていたし、脱会して結婚することも可能だった。
いわば、女性の在俗修道会、コミュニティーのようなものだった。
ブルージュのベギン会修道院は1245年、フランドル伯夫人によって設立された。
現在の修道院はベネディクト会に引き継がれ、修道女達はベネディクト会の
規律のもとに信仰生活を送っているが、服装は15世紀のベギン会修道女が
着ていたものとほぼ同じものだという。
ベギン会院は一般に教会、教会附属建築物、住居、中庭などからなっており、
塀で囲まれたり、ときには一つの町のようなものを形作っていることもある。
ブルージュの修道院の中庭は木立ちが林立し、ちょうど水仙の花が満開だった。
中庭を取り囲む建物は主として修道女達の僧院。
特徴的な白い壁は白塗り煉瓦。
中世そのままのブルージュの建物は殆どが煉瓦造りで、しかもブルージュ独特の
色むらのある手焼き煉瓦であり、それが何とも言えない味わいを街に醸している。
また、白塗り煉瓦の建物もある。ことに修道院などでは、敬虔な静謐さを感じる。
このように早朝、或いは夜、またシーズンオフ、或いはまた
観光コースからはずれた通り・・・・そこでは人気も無くひっそりと静まりかえっていて、
あぁこれがブルージュの空気なんだなと思う。
夜、街の中心部からはずれて行き、とあるレストランに入った。
客は地元の人達だけ、居酒屋を兼ねたようなレストランだが、アットホームな雰囲気だ。
食事を済ませて、そこだけが明るいレストランを出ると、辺りは暗く沈んでいる。
ホテルを目指して、運河に沿って歩き、橋を渡り、人気の無い通りを
歩んでいると、『死都ブルージュ』の雰囲気にひたされているのを感じた。
余談:オードリー・ヘプバーンが演じた<尼僧物語>。
あの映画の撮影はこの修道院で行われたのです。
ブルージュに2泊するつもりが1泊になってしまった。
だからどうしても駆け足になってしまったことが矢張り残念。
〜〜補足〜〜
ほかに、フランドル地方で有名なものにレースがある。
中世に始まり16世紀にはヨーロッパ各国から注文が殺到する黄金期を迎えた。
今は大部分が機械編みだが、伝統的なベルギーレースは手編みのボビンレース。
特にブルージュのレースは質、デザイン共に優れているという。
チョコレートのお店と共にレースを売る店もとっても沢山あった。
タペストリーの制作も中世以来の優秀な伝統を持っている。