ベルリン
―東西冷戦の時代を経て―




ブランデンブルク門



ベルリンと言えば【ブランデンブルク門】
ベルリンを象徴する建造物です。
1788年から3年の歳月をかけてプロイセン王国の凱旋門として建てられました。
高さ26メートル、幅65メートル、奥行きは11メートル。
第2次世界大戦後の米ソ冷戦時代、1961年にベルリンの壁が築かれると
ブランデンブルク門は東ベルリン地区に入ってしまい、
門は「ドイツ分断の象徴」となりました。
1989年12月22日、壁が崩壊しドイツが再統一されると
門は「統一の象徴」となったのです。




門の上の彫像は、四頭立ての馬に引かれた戦車に乗る
勝利の女神(ヴィクトリア)です。





↑これは壁が築かれていた時代の写真です。
ブランデンブルク門は東独が支配する東ベルリン側に属し、
壁は西ベルリン側に築かれています。
門の正面は東ベルリン側に向いていて、
西ベルリン側からは門の後側しか望めませんでした。




ブランデンブルク門から旧・東ベルリン側にのびる
ウンター・デン・リンデン(菩提樹の並木道)





ブランデンブルク門の西側は旧・西ベルリンに属し、壁が取り払われた後は
壁跡を保存しています。




6月17日通り
ブランデンブルク門から西(旧・西ベルリン側)に伸びている大通りです。
旧・東ベルリン側に向かって据えられている「叫ぶ人」の彫像。




その道路沿いにあるソ連兵追悼記念碑
第2次世界大戦末期、ベルリン解放のために進攻したソ連によるベルリン包囲戦で
命を落とした30万人以上のソ連兵を追悼するために1945年に建てられた。




シーゲスゾイレ(戦勝記念塔)                 


これも6月17日通りにある。
1864年の対デンマーク戦争、1866年の対オーストリア戦争、
1870〜1871年の対仏戦争の3つの勝利を記念して
1873年に宰相ビスマルクが建設した。高さ69m。
塔のてっぺんには勝利の女神・ヴィクトリア。




ベルリンの壁





ほとんどの「壁」は取り壊されているけれど、今も一部は保存されています。
そんな「壁」を見に行きました。
壁跡を見て、意外にもその厚さが随分薄いものなんだなぁと驚きました。

ベルリンという都市は、東西ドイツの国境線にあったのではなくて東ドイツの中にあり、
その中の西ベルリンはいわば東ドイツ領内の「飛び地」であって、
社会主義国内における、壁に囲まれた自由主義地域であった。
その西ベルリンへの逃亡を企てる東ドイツ国民を阻止するための壁が
1961年8月13日、突然築かれた。いわゆる「ベルリン封鎖」です。


東独側からは、壁との間に20〜50mの無人地帯が設けられていて、
そこには鉄条網やセンサーがあり、逃亡を企てた人の多くが壁に辿り着く前に
銃殺されてしまったのです。
また、たとえ壁を乗り越えられたとしても、壁は実は国境線よりも東独側に
作られていたので、壁を乗り越えた所はまだ西独側ではなく、
そこから西ベルリン領内に走っていく途中でも銃弾を受けて
多くの東独国民が亡くなったのでした。



←西ベルリン側から見た壁です

 
↑東ベルリン側から見た壁です。壁に辿り着くまでの無人地帯の跡が今もあります。


壁の西側にはおびただしい落書きが。



チェックポイント・チャーリーの跡
チェックポイント・チャーリーというのは、ベルリン市が東西に分断されていた時代に
  東西境界線上に置かれていた国境検問所




ベルリンの壁が崩壊し、統一されて20年になった今も、
東西分断時代の後遺症は残っていて、その最も大きなものは経済格差です。
旧・東ベルリン側に入ると、かつての貧しさの痕跡が今も残っているし、
この写真に見られるようなインフラ整備も進められてはいるけれど、
まだまだ道程は遠く険しいようです。

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ベルリンのまた別の面については、
長くなるのでページを改めて続けます。
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