陶磁器のマイセン
          &
歴史と芸術のイプツィヒ




              
マイセン
           


マイセンは、ドレスデンからから北西に約25km、ライプツィヒから東に約100km、
エルベ渓谷沿いにある人口3万に満たない町ですが、マイセン陶磁器で世界に知られています。




 

 中国の景徳鎮や日本の有田、伊万里など東洋からもたらされた白磁は、ヨーロッパの王侯貴族の憧れであり、その白い輝きを愛でて「白い黄金」ともてはやされました。事実、白磁はその当時ゴールド以上の値打ちがあったのです。
 ザクセン選帝候アウグスト強王は東洋磁器の蒐集家であり、そのコレクションは世界屈指であることを、先のドレスデンのページでも述べましたが、
磁器に関しては収集だけでは飽き足らず、錬金術師ベドガーをドレスデン近郊マイセンのアルブレヒト城に幽閉して研究させ、1709年、ヨーロッパ初の白い磁器を完成させます。翌1710年、「王立ザクセン磁器工場」が設立されました。
 以来、マイセンは今日に至るまで、コバルトブルーで彩られた「ブルーオニオン」模様や“双剣のトレードマーク”などと共にヨーロッパ最高級磁器の名声を保っています。



当初はアルブレヒト城内にあった「マイセン磁器製作所」は
今ではマイセン市街地にあり、ここを訪れました。
モダンなマイセンのビルの中には、「磁器博物館」があり、
歴代の豪華絢爛たるマイセン磁器の数々が展示されていました。
また、観光客用に絵付けなどの製作過程を見学できる施設があります。








              
ライプツィヒ
           



★ 聖トーマス教会 ★


































聖トーマス教会は12世紀半ばの創建です。
その後、ロマネスク様式やゴシック様式など、様々な建築様式による建て替えや改築、増築が行われてきました。
塔は18世紀初頭に建てられたものです。
16世紀、宗教改革者マルティン・ルターが、この教会で説教をしたこともあります。
ルターが説教して以来、聖トーマス教会はルター派の主要な教会となりました。 
(左の写真は西側正門、右の写真は東側から撮ったものです)



   
教会のいちばん奥まった所に祭壇があって、美しいステンドグラスを背景にしていますが、
その祭壇の前にはヨハン・セバスチャン・バッハ(大バッハ)のお墓があります。




「音楽の父」と称されるヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)は
1723年(38歳)から亡くなる1750年(65歳)まで、
聖トーマス教会の音楽監督・教師(カントール)(通称「トーマスカントール」)として赴任し、
最も輝いていた円熟期の28年間に、この地で多くの重要な作品群を生み出しました。
例えば、「ヨハネ受難曲」「マタイ受難曲」などの各種受難曲、「クリスマス・オラトリオ」、
各種カンタータ、「ゴルトベルク変奏曲」、「音楽の捧げもの」、などがあります。
そして、「ミサ曲ロ短調」が彼の最後の作品となりました。

遺骸は当初、ヨハネス教会に眠っていましたが、第二次世界大戦でこの教会が破壊され、
1949年にその亡骸がトーマス教会に移されました。
聖トーマス教会の南側の広場に、バッハの銅像も建っています。




聖トーマス教会は何度も建て替えられているので、
現在の教会の佇まいはバッハ時代のものではありません。
パイプオルガンも新しいもので、バッハが使ったものではないのだけれど、
でも、この場所で、バッハが数々の名曲を作り出したのだと思うと、感慨深いものがありました。
この組写真の右上は、バッハを描いたステンドグラス、下の2枚はメンデルスゾーンです。
今から思うと信じられない事ですが、
バッハの音楽は彼の死後ほとんど忘れられて
演奏もされなかったのだそうです。
そのバッハの音楽の偉大さを評価し、再び世に出したのがメンデルスゾーンでした。
若くして音楽的才能を発揮し、世の寵児となっていたメンデルスゾーンは、
ベルリンでバッハの「マタイ受難曲」を再演しましたが、ときにメンデルスゾーン20歳!
 その6年後、メンデルスゾーンははライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者になり、
この街にやって来ることになるのですが、時代を隔てた二人の深い縁(えにし)を感じます。



★ ライプツィヒの街 ★



ライプツィヒは、7世紀にスラブ系の人達によって
開かれたとされています。


南北・東西の交易路の交差点に位置するという
好条件により、商業都市として発展しました。
1170年から自治都市となり、見本市の開催によって
大きな利益を上げるようになりました。
商業、金融、印刷の町として大いに栄え、
ザクセン選帝候国の中でも、ライプツィヒは
首都ドレスデンと並ぶ繁栄を獲得しました。
この繁栄によって、17世紀から18世紀にかけて、
豪華な商館や私邸、公共建築物などの
建築ブームが起き、ライプツィヒはますます豪華な様相を
呈するようになりました。
バッハ没後の1765年にライプツィヒ大学の法科の学生としてやってきたゲーテも、街の豪壮さに驚嘆したといいます。

印刷の面では、第二次世界大戦前までは、
ドイツの出版物の50%はこの町で印刷され、
日本の≪岩波文庫≫もライプツィヒの出版社の
≪レクラム文庫≫を手本にしたのでした。


写真右側の真ん中は 旧市庁舎
16世紀半ばに建てられた、ルネッサンス様式の建物。
現在は1階がショッピングモール、
2階、3階がライプツィヒ市歴史博物館になっている
そうですが、見学するヒマはありませんでした。
また、この市庁舎広場は
クリスマスシーズンには、ドイツ有数の
クリスマス・マーケットが開かれることで有名です。



右側のいちばん上の写真は17世紀の終わりに建てられた旧商品取引所
 昔の見本市では、ここで商人たちが商談したそうです。
左側の上の写真は、旧商品取引所の前の小さな広場に立つゲーテの像です。
ドイツの古い大学としてはハイデルベルク大学が有名だけれど、
ゲーテが学んだライプツィヒ大学も、1409年に設立されたドイツで三番目に古い大学です。
ここでは、ゲーテのほかにもニーチェ、「メビウスの帯」で有名な数学者メビウス、
作曲家のシューマンやワーグナーが学びました。
レベルが高いといわれる医学部には、日本の森鴎外も留学しています。
現ドイツ首相(2009年時点)のメルケルさんもライプツィヒ大学の卒業生だそうです。

私が訪れた2009年、ライプツィヒ大学は創立600周年であり、
この地に縁が深く、ここで没したメンデルスゾーンの生誕200周年でもありました。
そして、後に触れますが、「ベルリンの壁」崩壊から20周年の年でもありました。




旧市庁舎の附近には、メードラー・パッサージュというショッピングアーケードや、
さまざまな歴史的建造物が現役で使われていました。



★ 聖ニコライ教会 ★



聖ニコライ教会も、聖トーマス教会と同じ頃、12世紀半ばにロマネスク様式の教会が建てられました。
商人の守護神である聖ニコラウスに捧げられた教会で、まさに商業の街ライプツィヒにとって
大切な教会です。

この教会にはぜひ行ってみたいと思っていましたが、見学のスケジュールには
入っていませんでした。でも、教会の前を通りかかったときに、
添乗員さんが内部をチラリと覗くだけなら入ってもよいと許可してくれたので、
文字通り覗かせてもらいました。美しい聖歌の調べが流れていました。
入口の部分だけは創建当初の様式を残しているということですが、
建物全体は16世紀の初めに改装され、
18世紀末には内装も現在のような姿に改められました。
その内装ですが、教会の外観からは想像もできないほどの明るさで、
ちょっと教会らしからぬイメージですが、でも、とっても良い感じでした。
柱頭の部分もとっても瀟洒な感じですが、これらの柱は棕櫚の木を模しているのだそうです。

20年前の1989年、この教会は大きな注目を浴びました。
旧東ドイツ崩壊のきっかけとなったのが、ここ聖ニコライ教会で始まった
「静かなデモ」だったのです。
この教会では、もともと月曜の夕方に平和について語り合う集会をやっていたのですが、
1989年9月、この集会に多くの人々が集まり始めました。
平和を祈る月曜集会の参加者は、10月から11月にかけて回を重ねるごとに増え、
最後には20万人にもふくれ上がったといいます。
この動きを警戒した東ドイツ政府は警察や軍を動員しますが、
集会に集まった市民は、あくまでも平和の祈りに徹し、ロウソクやバラの花を
手にしていたそうです。
こうして、聖ニコライ教会は東ドイツの民主化運動の重要な拠点となり、
平和と自由を求める運動のうねりは東ドイツ全土に広がっていき、
ついに1989年11月9日夜のベルリンの壁崩壊へとつながっていったのでした。

次のページへ