ハンザの女王 リューベック  





旧市街はバルト海の港から20km奥で、トラーヴェ川と運河に囲まれた、
南北2km、東西1kmの楕円形の中州地帯です。
13〜16世紀にかけて、ハンザ同盟の盟主として栄え、「
ハンザの女王」と呼ばれました。
今でも残る中世の立派な街並みからは、当時の繁栄ぶりがうかがえ、
美しい街並みは「七つの塔とホルステン門の町」とも呼ばれ、
市街全体が
【ハンザ同盟都市リューベック】として、
1987年から
世界文化遺産に登録されています。

リューベックが建設されたのは1143年。早くからバルト海の商業の町として発展し、
1226年には自治権を獲得、自由帝国都市となります。
以後、隆盛と衰退がありながらも、1937年にナチスによって自由を奪われ、
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州に吸収されるまで、711年間、自由都市であり続けました。




↑ ホルステン門
周りを川と運河に囲まれたリューベックには、城門があります。
なかでも、リューベックのシンボルともいえるホルステン門は、
1464〜78年に町の防衛のために建てられたものです。
壁は3.5bもの厚さがあり、すでに建設中からその重みで地面にめり込んでしまったそうで、
今もよく見ると、塔が傾いています。

門の入り口アーチの上にはラテン語で「CONCORDIA DOMI FORIS PAX」の
金文字が刻まれていますが、
「内に結束を、外に平和を」という意味だそうです。



ホルステン門を、裏側と言うか、町側から見たところ





 町の紋章・双頭の鷲の彫刻が見えます。





ホルステン門から市街へ入ると、リューベックの港であるトラヴェ川に出ます。
その川岸に並び建つ赤煉瓦の建物は、16世紀に建てられた「塩の倉庫」群です。
かつて「白い黄金」といわれた塩の保管倉庫です。
リューベックは直接海に面していないけれど、近くにあるリューネブルクは塩の産地で、
そこから運ばれた塩を輸出するまで保管していた倉庫です。
また、バルト海で獲れたニシンなどの魚を、リューネブルク産の塩に漬けて、
ドイツ国内や北欧、ロシアへ発送し、その交易によっても栄えたのでした。
この倉庫群は、今はブティックなどの店舗になっていました。

↓下の写真も、トラヴェ川と、その水面に影を映す、かつての「塩の倉庫」です。



町の中心部へ向かって歩いて行きます。


リューベックの旧市街では、細い石畳の路地があちこちで見られます。
そういう路地の隙間から教会の尖塔が見えたりして、なかなかの風情です。
この尖塔を持つ聖ペトリ教会へ向かいます。




13世紀から15世紀に至るハンザ同盟の黄金時代は、リューベックの最盛期でもありました。
ロンドンや北欧、ロシアなどの各地に商館を開いていました。
しかし大航海時代に新しい航路が開拓されると、貿易の中心はバルト海から北海・大西洋に移り、
同盟は次第に縮小。1630年に最後のハンザ会議が開かれ、ハンザ同盟は幕を閉じます。
リューベックは商業の町として存続はしたものの、衰退の道を辿ります。
でも、経済発展を遂げなかったことが逆に、リューベックの古い街並みを
今に伝えることになったのでした。
リューベックの旧市街には、今もバルト海貿易で活躍した豪商の家が残っています。
レンガ造りの立派な破風のついた、リューベックの伝統的な建物です。



聖ペトリ教会に着きました。
教会の塔へはエレベーターで上ることができます。
↓ 塔の上から見たリューベックの街並みです。



左側手前にマルクト広場の一部と市庁舎が見えます。



リューベックは「七つの塔の町」と言われ、
旧市街には5つのゴシック建築の教会の7つの尖塔がそびえています。
中で一番大きいのが聖マリエン教会で、この写真に見えているのがそれです













マルクト広場へやってきました。
広場に面してL字型に、左手に見えている白の市庁舎と、
正面に見えている黒の市庁舎が囲んでいます。
とても重厚な感じがします。




13世紀前半、リューベックが自治権を獲得し自由都市となって間もなく、
市庁舎の建設が始まりました。
ゴシック、ルネサンスなど様々な建築様式が混合しているのは、
増築が繰り返されてきたためです。
薄い緑色の屋根、赤色のレンガ、
釉薬のかかったリューベック特有の黒い艶出しレンガ、
真っ白なアーケード部分、風を通すために空けられた壁の大きな丸穴、
尖がった塔、どれも、とても独特です。




(市庁舎の建物はとても大きくて、全体を写すことができず、幾つかの細切れ写真になってしまいます)




↑ マルクト広場から見た聖マリエン教会
市庁舎の裏手にあります。
1250年から1350年にかけて建造されたゴシック様式の巨大な教会です。
聳える2本の尖塔の高さは125bあります。
煉瓦造りとしてはドイツ最大で、バルト海沿いの都市には、この教会を手本として
建てられた教会が多数あるそうです。
先に述べた聖ペトリ教会が教皇の命によって建てられたのに対し、
この教会は市民の寄進によって建てられたのだそうです。
また、8512本のパイプをもつ世界最大級のパイプオルガンでも有名で、
ヨハン・セバスチャン・バッハはその音色を聞くためにやって来て
この教会に通いつめたといわれます。



   

マルクト広場を東側に出ると、そこはブライテ通りというメイン通りです。
↑上の写真は、市庁舎の建物裏側に当たり、市庁舎の白い出窓です。



↑ ブライテ通りです。
通りの向こうに見えているのは、
聖ヤコビ教会です。




ブッデンブローク・ハウス

聖マリエン教会の北側の通りにあります。
ノーベル賞作家のトーマス・マン(1875〜1955)と、兄のハインリッヒ・マン(1871〜1950)が
少年時代を過ごした家です。
リューベックの豪商一家の盛衰を描いた
『ブッデンブローク家の人々』は、
自分の一族をモデルに書き上げたトーマス・マンの出世作であり、
マンはこの作品によって、1929年ノーベル文学賞を受賞しました。
自身、リューベックの豪商の家に生まれたマンは、19才でミュンヘンに引越すまでの少年時代を
祖父母の所有するこの家で過ごしました。
内部は兄弟の博物館となっていて、生涯や作品の紹介、展示がされています。




短いフリー時間に、相棒のAさんと私は、このブッデンブローク・ハウスを訪れました。
3階には、当時の部屋を再現した部屋がありました。
内部の撮影は禁止されていましたが、窓の外は撮ってもいいと言われましたので、
マン兄弟も眺めたであろう外の様子を撮りました。
聖マリエン教会が目の前に見えています。

近くには、『ブリキの太鼓』によって、やはりノーベル賞を受賞した
ギュンター・グラスの記念館もあるそうです。
因みに、リューベックという町は、もう一人、ノーベル賞受賞者を輩出しているとのこと。
かつての西ドイツ首相
ヴィリー・ブラントです。




聖ヤコビ(ヤコブ)教会
リューベックで3番目に大きい聖ヤコビ教会は、漁師達の寄付によるもので、
船と船乗りを守護する教会です。1334年に建てられました。

教会の向かいには「船員組合の家」が残されていますが、
現在は伝統料理を出すレストランになっています。


そのレストラン、“シーファーゲゼルシャフト”(船員組合の家)で昼食をとりました。



シーファーゲゼルシャフト(船員組合の家)

シーファー・ゲゼルシャフト、即ち船員組合のギルドハウスであった所です。
ミシュランでも「ハウス・デア・シーファーゲゼルシャフト」として紹介されているという
伝統のある郷土食レストランなのだそうです。
この建物は1535年に建てられたもので、赤煉瓦、階段状の破風など、
かつてのハンザ同盟時代をしのばせます。






↑建てられた年である“1535”という数字や、
船員組合を表す“Schiffer Gesellschaft”
(シーファーゲゼルシャフト)という文字も見えます。







薄暗い店内には、真鍮のランプ、帆船の模型などが吊り下げられていて、
往時の雰囲気がしのばれます。




紋章のついた樫製の長椅子や、船の舷板で作ったテーブル、角材の支梁など、
かつて使われていた家具類がそのまま使用されているとのことです。





昼食の後は、リューベックともお別れです。



まさに、水に囲まれた旧市街です。




 

↑ ブルク門(1444年完成)
中世には城壁に囲まれていたリューベックには、かつて4つの市門があったそうですが、
今では、西側のホルステン門と、北側にあるこのブルク門の2つだけが残っています。


 門の左側に、ヤコビ教会の尖塔が見えています。

バスの車窓から見るブルク門とリューベックに別れを告げました。

                  
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