門を出ると、そこは広い桜の公園でした。
慶州について
新芽が芽吹き出し、広く爽やかな境内を出口の門へ歩きます。
カササギ
黒いのでカラスかと思ってしまうけれど、肩とお腹が白いし
尾羽根が長い。日本では主に北九州に生息する
ぐらいだけれど、韓国では常に見かける。
一説に、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に
佐賀藩主らが連れ帰ったと言われている。
朝の桜
お寺の境内なのに、なにか雅な趣き。
上の写真は本堂にあたる大雄殿。本尊は釈迦牟尼像。
下の写真は大雄殿の裏手にあり、仏教の講義をしたとされる無説殿。
どちらも秀吉の朝鮮出兵の折に焼失し、
現在の建物は共に再建されたもの。
一柱門を入って庭園の中を歩いて行くと天王門に至る。
門の内には四天王が。
〔青雲橋・白雲橋〕と紫霞門
〔青雲橋・白雲橋〕と紫霞門を真横から見た写真。
この石の基壇は創建当時のもの。
青雲橋・白雲橋、蓮華橋・七宝橋、紫霞門や安養門も
現在は石段保護のために使用出来ないので、
青雲橋・白雲橋の右手にある坂から大雄殿などのある
いわゆる彼岸世界(仏の国)の区域に入っていきます。
そこは彼岸、仏の国(仏国)とされ、色鮮やかな丹青の回廊と伽藍群があります。
本堂にあたる大雄殿の前には2つの塔があり、
どちらも焼失を免れた当初からのものであり、共に国宝。
一つは多宝塔。しかし多宝塔のほうは修復中で全容が見られなかった。
もう一つは、この組写真の左側にある釈迦塔 。
釈迦塔は高さ8.2m。新羅時代の三層塔。
塔内から世界最古級の木版印刷物である『無垢浄光陀羅尼経』(国宝)が発見された。
ここに写っている石の階段は
俗世から仏国土(彼岸世界)へ渡る橋だとされ、階段だのに「橋」の名がつく。
この組写真の右上の二段に分かれた階段は国宝23号に指定されている
〔青雲橋・白雲橋〕。上の16段が白雲橋、下の17段が青雲橋と呼ばれ、
合計33段。33という数字は仏教でいう33天を意味し、
この石段を登った所にある紫霞門をくぐっていけば仏国寺の本殿領域、
即ち彼岸世界(仏の国)に至るということを象徴するのだという。
組写真・下は、 〔青雲橋・白雲橋〕の左側にあり、 〔青雲橋・白雲橋〕より
やや小ぶりで国宝22号に指定されている〔蓮華橋・七宝橋〕。
やはり二段に分かれていて、下の10段が蓮華橋、上の8段が七宝橋と
呼ばれ、やはりこの階段(橋)を登って安養門をくぐれば
極楽世界である境内へ至る。
組写真の左上は、上記2種類の階段の間に建つ〔泛影楼〕。
一柱門
仏国寺の創建は、新羅で仏教が公認された翌年、528年のことだとも、
新羅第35代景徳王10年(751年)、宰相であった金大成によって創建されたとも、
諸説あるそうですが、最盛期の8世紀には約60棟の木造建物があったとのこと。
しかし、李氏朝鮮時代に儒教が国教となり仏教弾圧による破壊や、
豊臣秀吉による1592年壬辰倭乱(文縁の役)で多くの建造物が焼失したことなどで
ほとんどの建物を失い荒廃してしまいました。
現在では、 1765年に再建された大雄殿をはじめ、
1968年の発掘調査を経て1973年に復元された建造物を含め
1995年にユネスコの世界文化遺産に指定され、
6つの国宝を有する新羅全盛時代の仏教芸術の最高傑作と称されます。
仏国寺
いよいよ慶州観光に出掛けるのだけれど、その前に慶州についての概略を。
紀元前57年、この地に斯廬(シロ)国が建てられ、4世紀後半に新羅と改称。
6世紀から7世紀にかけて、新羅は伽耶(任那)を 滅ぼし、
百済、高句麗をも破って朝鮮半島を統一。
935年、高麗に滅ぼされるまで、慶州は斯廬(シロ)国の時代から統一新羅王朝の
時代に至るまで首都であり続けたのであり、「千年の都」と呼ばれる由縁です。
(もっとも、斯廬国の時代は神話的色彩が強く、確かな記録は4世紀からとも)
その慶州が最も栄えた統一新羅の全盛時代には17万戸、100万の人口がいたと
いうことです。
現在は地方都市ながら、至る所に新羅時代の古墳や寺院が点在し、
街全体が「屋根の無い博物館」と称され、
世界遺産にも多く指定されています。
桜の名所としても名高い魅力的な観光都市です。
天王門をくぐって行くと、実に美しい建造物が姿を見せます。
朝、朝食をとるために食堂へ行く道すがら、普門湖畔の桜並木
鐘堂