掛陵と南山の石仏巡り
掛陵
掛陵は8世紀末の新羅第38代・元聖王の
王陵とされています。
広大な敷地の中に作られ、
左右対称の美しい形で
新羅の王陵のなかでも
最も様式の整ったものとされています。
古墳に至る道は芝生に覆われ、
その両側には武人や文人、
獅子の石像が置かれています。
護石をめぐらせた左右対称の美しい円墳。
新羅時代の古墳も時代によって様式の変化があり、
初期は装飾が施されず、土を盛っただけのシンプルなものであり、
時代が進むにつれて、護石を積んだり、欄干で囲んだり、
十二支神像の護石や、参道に文官や武人、獅子の像が
置かれたりするようになり、この掛陵の様式はまさに
最も完成された姿を残す王陵だとされているそうです。
擬人化された十二支神像が彫られた護石。
影池
(仏国寺から掛陵へ行く途中にあった)
伝説によると、仏国寺の石塔を作るために百済から呼ばれた石工を追って
妻がこの地へやってきた。しかし塔が完成するまでは石工は女人に会うことは出来ず、
妻は、塔が完成すればその姿が池に映るので、それまでこの池の畔で待てと言われた。
しかし、待っても待っても池に塔の姿は映らず、とうとう妻は池に夫の幻影を見て、
身を投じてしまった。塔を作り終えてこの場所にやって来た夫は、妻が入水したことを知り、
自分もこの池に投身自殺してしまったという。
新羅歴史科学館
新羅歴史科学館は、新羅の科学文化に関する遺跡、遺物を再現した博物館。
ここにある物はどれもレプリカといえばレプリカなのだけれども、
例えば、この館の代表的な展示物である石窟庵の模型でいえば、
5分の1の縮尺で本尊と全体を再現し、10分の1の縮尺で石窟庵の構造を説明しています。
現在の石窟庵は保存のためにガラスで覆われ、観光客は中に入れないとのことだし、
このような精巧な模型で説明をしてくれていると、とても解りやすかった。
ほかにも、新羅時代の水時計や天文台の模型など。
慶州民族工芸村
新羅時代の工芸技術を保存・開発する目的で、
慶州各地の工芸家たちをよび集めて造られた村で、現在、新羅土器、真鍮の器、
新羅金冠、木工芸、青磁、韓服など、16の伝統工芸の工房があるとのこと。
↑ 青磁の窯元
←新羅窯の工房では、新羅土器を現代に蘇えらせた名匠
人間国宝的な柳先生がロクロを回す実演を見せて下さり、
登り窯を見たり、ショップで様々な新羅陶器を見て楽しみました。
南山の石仏を訪ねる
“南山(ナムサン)”は、慶州の南に位置し、
新羅の時代から国を守る霊山として信仰の山であったそうです。
東西4km、南北8km、主峰は標高494mながら、
変化に富んだ尾根と40ほどの渓谷がきざまれ、その谷沿いの筋毎に、
寺々や数々の石仏などが遺され、その数、約150の寺跡、約120の石仏、
約90の塔、約20の石灯籠など700点近くもの遺跡が点在していて、
石造美術の宝庫と言われる所以です。
但しこれらの石像物は谷筋ごとに点在しているので、それぞれの谷毎に麓に下りて
登りなおさなければならず、全部を見て回るのはとても困難なことのようです。
私達は慶州滞在中の7日の午後と8日の午前にそのうちの幾つかの寺と石仏を訪ねました。
弥勒谷の菩提寺石仏
菩提寺という近年再興された寺があり、仏堂の後の林の中に如来像がおわします。
石造如来坐像
最も仏教が栄えた統一新羅後期の作とされる。
なんとも柔和で気品にあふれたお顔です。
(高さ 2.44メートル)
このような巨石のある松林の中に、如来像は露天で座しておられました。
菩提寺を後にして坂を下って行くと、、、、
ふと目に入った標識
右へ行くと、先ほど訪ねた石造如来坐像へ180b、
そして左へ155b行くと磨崖如来坐像があるそうな〜
さっき行った菩提寺より近いのならぜひ行ってみようと
左への道を辿ったのだが・・・・・
この道が、先程の菩提寺への道とは
うって変わり、油断をすると
滑り落ちてしまいそうな急勾配の
かろうじて道筋のある上り坂でした。
でも、喘ぎつつ、ヒヤヒヤしつつ
辿り着きました\(^O^)/
↓ 磨崖如来坐像 です
(滑らないように、木の幹に
しがみ付きながら撮影(≧д≦)・゜゜・)
弥勒谷を後に、いったん里に下り、
改めて塔谷という谷筋に向かいます。
塔谷磨崖彫像群
谷筋から次の谷筋への移動はタクシー。
タクシーを降りると小さな川が流れていて、これが塔谷の谷川なのかな?
小さな橋を渡ると、玉龍庵という小さなお寺の境内。
そこを奥へと登っていくと、大きな大きな大きな石が!!
巨大な石の垂直の壁には、四面それぞれにさまざまな彫り込みがあります。
側には大きな三重の石塔もありました。
とにかく、この巨石の大きさと、彫られているレリーフの豊富さに感嘆、
圧倒されました。
→次のページへ