大陵苑





市内のあちこちで古墳を目にする慶州市内の中でも、
特にここ大陵苑は、面積約12万5400坪の広大な敷地に
23基の古墳が集中して並んでいます。
慶州市内には合わせて150基以上の古墳があるそうですが、
その殆どの古墳が、誰が葬られているのかわからない
のだそうです。
大陵苑の23基の古墳のなかでも被葬者が判明しているのは
新羅第13代・味鄒(ミチュ)王(在位262年〜284年)だけ
ですが、残る22基の古墳も大きく立派なことから、
いずれも新羅時代の王や王族の古墳と
見られているそうです。










天馬塚




この古墳の被葬者は分かっていないけれど、1973年に発掘調査された後、
その内部が公開されるようになりました。
調査結果によれば、この墓は5世紀末から6世紀にかけて作られた
積石木槨墳(つみいしもっかくふん)だということです。
積石木槨墳とはいかなるものか――(公開されている天馬塚の内部の壁の一部は
古墳の断面がわかるように作られている)――木槨という木組みの部屋の中に
棺と副葬品を納め、木槨の上にも横にもぎっしりと隙間無く川原石を積み、
更にその上を土で覆い、封土を作るというもののようです。
かように厳重で、しかもこの作り方だと墓の入り口が無いので、盗掘にあわないのだそうです。
もっとも、墳墓全体が石と土で覆われているのですから、その重みはすごいもので、
発掘したときにはさすがに木槨の部分はつぶれていたとのことです。
それでも、盗掘にあわなかったお蔭で、黄金の冠や腰帯、豪華な装身具、武器、馬具など
1万1500点余りが発掘されたそうです。天馬塚の内部には幾つかのレプリカが
展示されていましたが、なかなか豪華なものでした(本物は国立博物館に)。
天馬塚の名前の由来は、白樺の皮で作られた馬の泥よけが出土したからでした。
この泥よけには天馬の絵が描かれていたのです。











半月城へ

大陵苑を後にして、陽が次第に傾く中、半月城址へと歩みを進めました。

 






慶州はほんとにあちらにもこちらにも古墳がゴロゴロといった感じです。
この写真のようにまとまってあるものもあれば、道の傍らに1基だけ何気ない様子であったり、
古墳も慶州ではありふれた風景に見えてきます。




見えてきました!
一面の菜の花畑と、その向こうの桜に埋め尽くされた丘。
この丘の上にはかつて土塁で囲まれた20万uに及ぶ広大な城がありました。
西暦101年、新羅第5代国王・婆娑(パサ)王によって完成された城は
新羅王朝歴代の宮殿でもあり、また要塞でもありました。
地形が半月状であったことから「半月城」と呼ばれたそうです。





丘の上に登ってみました。菜の花畑の向こうに慶州市内も望めます。

   

丘の上は広大な平地で、かつての城の跡形も無く、原っぱが広がっているばかりでした。
新羅が滅びた時に城も崩れ去ったのでしょうか、、、。

唯一残っているのが、この写真の「石氷庫」です。
冬の氷を1年中保管しておくために作られた氷保管庫は、古代新羅の時代から
あったそうですが、この保管庫は李氏朝鮮時代の18世紀に作られたものだとのことです。





土塁に沿って桜が植えられていますが、桜の木々の向こうに陽が沈みかけてきました。

 

丘を下りて、菜の花畑で空を見上げると、十三夜の月が出ていました。
(左の写真の一番上の方に見えます)
桜と、菜の花と、月と、、、、
まさに、蕪村の 
菜の花や月は東に日は西に の世界でした。


  

















瞻星台(日本語読みで「せんせいだい」)
現存する東洋一古い天文台で、新羅末期の善徳女王
(632〜646)の時代に作られたと推定されているそうです。時間が無かったので、柵の外から見ただけでした。





この日も古都慶州の美しい夕陽を見ることができました。

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