新羅の歴史を物語る場所




鮑石亭



南山の麓に小さな史跡「鮑石亭」(ポソッチョン)があります。
新羅王室の離宮として建てられ、歴代の王たちが宴会を開き、
華やかさと風雅に満ちた場所であったようです。




しかし今は、この写真のように鮑(あわび)の形をした石の溝が残っているだけで、
華美と豪奢を尽くしたであろう建物は跡形もありません。
アワビ型の水溝は、水溝に浮かべられ流れてきた盃が自分の前を通り過ぎる間に
詩歌を詠むという王侯貴族達の風流な遊び=曲水の宴に使われたものです。


華やかな王朝絵巻を繰り広げたこの地ですが、
ここはまた、新羅が滅亡するきっかけとなった場所でもあります。
新羅の第55代国王・景哀(キョンエ)が鮑石亭で宴会を開いている時、
後百済の国王・甄萱(キョンフォン)の襲撃を受け、死に追いやられます。
そして遂に新羅は935年に高麗に帰順し、新羅1000年の歴史が幕を閉じたのでした。




数々の歴史を秘めた慶州の地は、
日本の奈良や明日香とどこか雰囲気が似ていると再三感じたのでした。








新羅滅亡に係わる地・鮑石亭を後にして
次は時代を遡り、
三国統一の基盤を築き、新羅の名君と言われる太宗武烈王陵に向かいます。




太宗武烈王陵



 武烈王(602年?-661年)は、新羅第29代の王(在位654年– 661年)。
姓は金、名は春秋、廟号は太宗、諡号(贈り名)は武烈王。
卓越した政治力と外交術で唐と連合して百済を滅亡させるなど、
混乱の三国時代末期にあって、三国統一を成し遂げる基盤を作りあげました。
ただ彼は、三国統一を見ることなく遠征途上で病死してしまうのですが、
その息子・文武王の時についに高句麗・百済を完全に滅ぼし、
統一新羅王朝が成立しました。
韓半島における史上初めての統一国家の誕生です。

内政面では唐の政治制度に倣い、律令制の導入、中央集権の強化などを行い、
新羅王国を強大化しました。
また文化的にも当時の先進文化であった唐の文化を積極的に受け入れて
新羅の文化の発展に大いに貢献したのでした。

日本との関連でいえば、 
660年に新羅・唐連合軍に敗れた百済残存勢力は日本に援助を求め、
663年、斉明天皇は援軍を出すが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に敗退します。
(この間、661年に武烈王は亡くなっています)
また、真偽の程は定かではないのですが、『日本書紀』孝徳天皇、大化二年(646年)の記述に
「九月に小徳、高向博士黒麻呂
(たかむくのはかせくろまろ)を新羅に遣わし、
人質を送るように要求させ、任那の調
(みつぎ)を止めさせるようにさせた。
(黒麻呂の更
(また)の名は玄理(げんり))」
また、翌年大化三年(647年)の記述には
「新羅は上臣大阿さん金春秋たちを遣わして、博士小徳高向黒麻呂・
小山中 中臣連押熊
(なかとみのむらじおしくま)を送って来て
孔雀一隻・鸚鵡一隻を献上する。仍
(よ)って春秋を質(むかわり)とする。
春秋は姿顔が美しく善
(この)んで談笑(ほたきごと)する。」
とあります。
(『日本書紀』からの引用は福塚忠司氏『中学生にも読める「日本書紀」』より)
『日本書紀』の記述をそのまま読めば、金春秋(後の武烈王)は人質として日本に来た
ことになり、容姿が美しく、快活でよく笑い社交的であったということになります。
もっとも、その当時の韓半島の歴史書にはそのような記述は無く
事の信憑性は全く定かではありません。
また、武烈王の息子の文武王が在位した時代は、
日本では天智天皇、天武天皇の時代に当たります。



  

太宗武烈王陵
高さ約12m、直径約37m、円周約114メートルの円形墳墓で、
造り方は大陵苑のページでも述べた「積石木郭墓」。





武烈王陵の後には、さらに4基の古墳が縦一列に並んでいます。
葬られているのは、武烈王の祖先にあたる人物ではないかと推定されているそうです。



  

太宗武列王陵碑



碑閣の中の亀の姿をかたどった台座のことを亀趺(きふ)といい、
新羅石造美術の傑作と言われています。
碑文自体は失われているけれど、亀が背中に乗せている
6匹の龍が彫られている「螭首(ちしゅ)」の部分に
「太宗武烈大王之碑」という文字が刻まれていたために
この古墳が武烈王のものであることが分かりました。
(因みに、「螭(ち)」というのは龍の一種のことで、
「螭」の形を彫った石碑などのことを「螭首」と言います)
この「螭首」の上に更に碑の本体があったと思われますが、
それは失われているのです。





















↑ この部分に
「太宗武烈大王之碑」と刻まれた文字が
うっすらと読める。武列王の2番目の息子であり、
当時の有名な書家であった
金仁問によって書かれたものです。




武烈王陵から道路を越えて反対側には、
武烈王の息子である金仁問、武烈王の九代孫にあたる金陽のお墓があります。

金仁問は「太宗武烈大王之碑」の字を書いた武烈王の2番目の王子です。





武烈王の重臣であり、よく王を補佐し
三国統一に貢献した名将・金庾信(日本語読み・キンユシン)の墓に
向かおうとしたけれど、花見の車で大渋滞 o(><)O O(><)o
断念することにしました (;´○`;)

長くなるので、この続きは次のページに回します。    次のページへ