モン・サン・ミシェル

ヴィクトル・ユゴーが <海上のピラミッド> と言ったというモン・サン・ミシェル。
8世紀に司教・オベールの夢に現れた大天使・ミカエルのお告げにより、この島に
小さな礼拝堂が建てられたのが始まりとされる。
10世紀にはベネディクト派の修道院となり、ロマネスク様式の建物が地形に合わせて
次々と増築されていき、多くの巡礼者が訪れる。
14世紀〜15世紀に英仏間で争われた100年戦争の時代には、フランス軍の要塞として
イギリス軍の攻撃にさらされる。
戦争が終ると修復が始まり、盛期ゴシック様式の建物が更に増築される。
16世紀以後、修道院は次第に衰退していく。
1789年、フランス革命が起こると修道院は革命政府によって没収され、
1790年から1863年までは監獄として使われた(海のバスチーユ)。
1874年、フランス国家が管理することになり、ようやく修復の手が加えられることになる。
1965年、再びミサが行われるようになる。今も少人数ながら修道士がいる。
1979年、<モン・サン・ミシェルとその湾>が世界遺産として登録される。

周囲900メートル、尖塔までの高さ150メートル。
この湾はヨーロッパで最も潮の干満の差がはげしい。
春には、潮位の差が最大で15メートル、沖合いに15〜18キロメートルも引き、また時速30キロで
潮が満ちてくる為、過去には多くの巡礼者たちが犠牲になったという。
今は堤防が築かれて、潮位に関係なく行き来できるようになったが、それによって砂が堆積
することとなり、かつての潮の流れに異変が生じたり、陸と連なり島でなくなってしまう
恐れが出てきたり、新たな問題も起こっている。

←グラン・リュ(「大通り」という意味)
城壁の中にはホテルやレストラン、土産物屋が立ち並ぶ通りがある。「大通り」とは言うものの通りの幅は2メートルぐらいしかないように思う。
白い建物は今も残る数少ない木造の家。

大修道院の尖塔の先には黄金の大天使・聖ミカエル
(St.Michel フランス語読みでサン・ミシェル)の像がある。
(因みにモンは山の意、モン・サン・ミシェルは「聖ミシェルの山」の意)
大天使ミカエルは天の軍の指揮官で、「最後の審判」の時には天国へ昇る人と
地獄へ落ちる人とを選別する役目を担うとされる。絵画や彫刻に描かれる聖ミカエル
は鎧に身を包み、剣と盾を持っている姿が多い。

見学コースは先ず最上層まで上って行き、下へ下へと下りていく。 

〜〜先ず、最上層の西側テラスへ〜〜

 大修道院教会 西側のファサード →

テラスより北側を望む

北側の遥か向こうはイギリスだ。
イギリス軍はこの方向から攻めてきた。

そして南側を見ると、
クエノン川が流れ、この川の西側(写真右側)はブルターニュ、東側(写真左側)がノルマンディー。モン・サン・ミシェルはすれすれでノルマンディー側に入るのだけれど、どちら側に帰属するかをめぐって過去には争いもあったという。

次の3枚の写真はいささかシビアだ。
私はこの三方に面した真ん中の部屋(ステパノ
礼拝堂)に立って写真を撮っている。
これは、この修道院に住んだ人が亡くなった
時の手順である。

@

A

B

@は医務室。この扉から遺体を運び出す。
Aは聖ステパノ礼拝堂の祭壇。ここに遺体を
  安置して礼拝。
Bの奥は納骨所。この扉から出て遺体を
  置く。
@とBの扉は向かい合っている。
今風に言えば、病院と葬祭場と墓地が隣り合っているという感じですね、、、。

内部は・・・・・広くて・・・そして迷路・・・です・・・・・
ここへ来るのは2回目だけど、よく分からない・・・
前回は雷雨、稲妻の閃光の中で、外観の写真は殆ど撮れなかった・・・
今回・・・なぜか内部を殆ど撮ってない・・・
前回と今回を足せば、どうにか補完しあえるかもしれません(-_-)、、、。

↑バスの車窓より。   この辺りの羊は顔が黒い。
潮の満ち干がはげしいために、牧草は塩分を含んでいる。その草を食べる羊の肉は潮の香りがし
殊のほか美味だそうで、非常に珍重されているとのこと。

↑ ここを入って少し行くと、門衛のいる
入り口で、そこから大修道院へ入っていく。

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